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茶道と能楽  1

 「能楽」と「茶道」との関係は、利休の後妻が能楽師の妻だった所から始まると言われています。

 謡や仕舞などを行なう「能楽」も「茶道」も基本は同じで、「息」という言葉に集約されるかもしれません。

 いくら声が良くても「息」がうまく使えなければ、謡にはなりませんし、この息づかいを把握できなければ、狭い茶室のなかで、ふすま越しに聞こえる客の息づかいをきいて、即座に応対できると事は不可能です。
 この「息」ということを考えていくと、茶道の達人はやはり「阿吽」という息づかいをマスターしていなければ、茶道にならず単なる遊芸で終わってしまうような気がします。

 事実、千家流茶道でおこなれている「七事式」などはまさに、この息の使い方の訓練で、主客一体となって、間の投げ合いをするという状態は、能の囃子と全く一緒です。
 利休は文書によると、宮王三郎から「藤戸」「関寺小町」の2曲をならったとされています。お謡いの稽古された経験のある方ならおわかりだとおもますが、これは初心者が習う曲ではありません。「関寺小町」なんぞは重習の別伝など、謡の中で一番難しいくておいそれと素人が習える曲ではありません。
 ここに謎があって、なぜ宮王はこんな曲を利休に教えたのか、利休が求めたのか、それとも宮王の方から申し出たのか、全くわかりません。ただ、言えることは、お互いそれぞれの分野で超一流という言える芸道の達人であったことは確かで、その達人同士のなかでどんなやりとりがあったのかはまだ研究の余地が残っています。
 能装束に使う裂地など、茶道の中にかなり入り込んでおりますし、また、石州流などでは仕舞の立ち振る舞いを点前に持ち込んでいます。小堀遠州も曲舞を舞ったことが記録に残っておりますし、江戸初期には数寄屋御成という習慣があり、将軍なり藩主が家来の家を訪問した際、まず茶の湯でもてなしをし、その後観能の席で接待することが一般に行われていました。
 江戸期を通じて、形が整っていく上でそれぞれが独自の発展をしていきますが、根底に流れているものは同質のもののようです。



  *この文章の元は、あるホームページからの抜粋です。

   許可のメールを送りましたが、2008年以来更新が無いようで無断で掲載します。

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